多宝塔
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神仏習合の歴史を物語る大小の神社仏閣。宮島の祈りの道を辿ってみよう。
多宝塔(たほうとう)《重要文化財》

嚴島神社西の丘にある高さ15.6mの多宝塔は、大永3年(1523年)に建立されたと伝えられます。弘治元年(1555年)の厳島合戦では、陶晴賢が真っ先に陣所を設けた場所です。純和様を基調としながら上層部に天竺様、内部は禅宗様を取り入れた建築様式で、上層は円形、下層は方形、屋根は上下とも方形となっている珍しい構造です。明治の神仏分離令で管理するものがいなくなり一時は朽ち果てかけていましたが、篤志家によって救われ、本尊だった薬師如来像は大願寺に遷されました。周辺は桜の名所で、夜間ライトアップされたその姿は嚴島神社の美しい背景ともなります。

多宝塔多宝塔
大元神社(おおもとじんじゃ)《御本殿は重要文化財》
 

嚴島神社よりも前に創建されたという伝承がある古社。国常立尊(くにとこたちのみこと)、大山祇神(おおやまづみのかみ)、保食神(うけもちのかみ)、さらに嚴島神社の初代神主・佐伯鞍職を祀り、宮島の地主神として人々の信仰を集めてきました。「大元葺」と呼ばれる六枚重三段葺の板葺きの屋根は、中世の絵巻物にみられるだけで今日現存する唯一のものです。毎年1月20日には争い事をしないことを念じて弓矢で的を射る百手祭が行なわれます。またこの神社は毎年5月15日に船で島を一周し、浦々にある9社を参拝する「御島巡式」の最終地で、御島巡式を無事成就したお礼に奉納された報賽額(ほうさいがく)が多数掲げられています。

大元神社大元神社
清盛神社(きよもりじんじゃ)

嚴島神社の裏手を流れる御手洗川によって運び出された土砂や浜辺に堆積した砂を築固め、江戸時代以降、徐々に延びていったのが「西の松原」と呼ばれる築出し(突堤)です。昭和20年(1945年)9月に来襲した枕崎台風によって御手洗川に大規模な土石流が発生。新たに堆積した大量の土砂を運んで、西の松原を延長し、有之浦・大元浦が埋め立てられました。そして清盛の没後770年を記念し、延長された西の松原に清盛を祭神とする清盛神社が創建されたのが昭和29年(1954年)。その前年には平清盛の遺徳を偲んで清盛祭が始まっています。

清盛神社清盛神社
光明院(こうみょういん)

室町時代、以八(いはち)上人が開基したと伝えられる浄土宗の古刹。町民の信仰のために建てられた宮島で最初の檀家寺です。宮島には壇ノ浦の合戦の際、海に身を投げた二位の尼の遺体が有之浦に漂着したとう言い伝えがあり、現在の光明院の隣にあった神泉寺に尼を弔って阿弥陀堂を建て尼の木像を祀っていましたが、神泉寺が廃寺になり現在は宮島歴史民俗資料館で弔っています。また、“宮島の恩人”として名高い誓真和尚が修行した寺でもあり、境内横には誓真大徳碑が建てられています。

光明院光明院
宝寿院(ほうじゅいん)

天慶9年(946年)、開基と伝えられる真言宗の古刹。寺のすぐ裏手の山に「馬酔木(あせび)」が群生していたことから「あせび寺」とも呼ばれています。本尊の秘仏・阿弥陀如来をはじめ、数多くの仏像・仏画を所蔵。また像境内の聖天堂に祀られている歓喜天(聖天さん)は、商売繁盛の神として有名。

宝寿院宝寿院
徳寿寺(とくじゅじ)

「金石(きんせき)地蔵」と呼ばれる子授け地蔵で有名な曹洞宗の寺。その金石地蔵の由来とは、島に住む老夫婦が子どもがいないのを憂い仏様に祈り続けていたところ、ある夜、竹林の中で輝いている石の地蔵尊の夢をみて、竹林に行ってみると本当に石の地蔵尊があったとか。その地蔵を手厚く供養すると男子を授かり、長じて広島藩主お抱えの力士になったことから、夫婦はこの地蔵尊に深く帰依し正徳5年(1715年)に御堂を創建。さらに安置した石の地蔵尊がいつの頃からか黄金色となり、以来、金石地蔵と呼ばれるようになったと伝えられます。

徳寿寺徳寿寺
真光寺(しんこうじ)

島内では唯一の浄土真宗の寺。かつて宮島には厳しい霊地法度があり、その中で真宗ご法度が唱えられていましたが、安芸門徒の移住や婚姻関係等で真宗信者が増え、戦前に説教所が発足。終戦後に法令が改正され、独立した寺院となりました。
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真光寺真光寺
存光寺(ぞんこうじ)

要害山の麓にある曹洞宗の寺。開基は不明ですが、約300年前に出雲の一畑薬師から十二支神を持ち帰って開いたと伝えられる薬師堂があり、目の不自由な人に対してご利益があるとして信仰されています。かつては厳島合戦で敗れた陶軍の将兵の霊を弔うために、毛利軍が甲冑をつけて舞った事に由来する湯立神楽が行われていました。

存光寺存光寺
人と神々が共に生きる島 日本三景 Miyajima